1976年
周恩来の死去

中国共産党の幹部には、毛沢東を始めとする農村地主や農民出身の人物と、周恩来を代表とする名家・官僚・都市インテリ出身層がいます。
彼の出身は官僚層で、教育も受け、日本にも留学経験がありました。靖国神社も見学しており、日本人の知人も出来、日本の社会文化も学んでいます。
一方で、山東省の権益をドイツから日本に移すパリ講和に反対した抗日運動である五四運動に参加、学生のリーダーとして頭角を表しました。その後、パリに留学し、鄧小平らと知り合います。
帰国後、国民党の黄埔軍官学校を経て、共産革命に乗り出しますが弾圧を受け、共産党紅軍の長征に参加。その途中、貴州省遵義の遵義会議に出席し、軍事指揮者に選出されます。しかし彼は、その地位を毛沢東に譲り、以後は、毛沢東の側近として付き従うことを決めました。
張学良によって起こされた西安事件で国共合作を進めたのも、黄埔軍官学校時代に同校校長だった蒋介石と顔見知りだった周恩来の交渉がありました。
大戦終結後も、国民党との連合政府を模索しています。国共内戦後に中華人民共和国の初代国務院総理に就任。多くの要人が内紛で失脚する中、毛沢東に信頼された彼は権力の座にあり続けました。
しかし、そんな彼でも、文化大革命ではその力を発揮しきれませんでした。暴走する紅衛兵を抑え、露骨に暴力を振るわれる要人を助け、文化財の破壊を必死に止めますが、それでも自身の養女で女優だった孫維世を暴行と拷問で殺害されました(同じ女優出身の江青の嫉妬だったとされる)。
江青ら四人組や紅衛兵と対峙しながら、心身を磨耗した周恩来は、膀胱癌で衰弱しながらも、政務に当たり、ついに死去しました。しかし彼がかばったことで鄧小平らが四人組の失脚と文革の収束を図ることに成功したわけです。
知日派で日本との国交回復を図り、文革での対応など、常に暴力的に陥りがちな中国共産党で、穏健派として行動したのは、やはりその出身故だったからでしょうか。
彼は激しい政治闘争の中でも、建国から死去まで政務院総理・国務院総理だったことから、「不倒翁」(起き上がり小法師)と呼ばれました。
国民の人気が高く、彼の死後、人々は各地で追悼集会を開き、それが文革に対する不満の爆発に発展。2万人が天安門広場に集まり、武力鎮圧される第一次天安門事件が起こりました(有名な六四天安門事件は「第二次」)。

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